- 6月 24, 2025
日本脊髄外科学会指導医更新、脊髄内視鏡下手術技術認定医承認までの色々な事
2025年6月23日月曜日 夜
レセプト始まってしまいました。医事課さんがしっかりしているのであまりストレスはありませんが。 本日は内視鏡下腰椎椎弓形成術3例、無事にいき、患者さんは術後3時間くらいでみんな帰られました。 早番さんは17:00に、他のスタッフみんな17:30、遅くても18:00には帰れたかなあ。お疲れさまでした。
オペ落ち着いて18:00から私は散歩、近くの川の回診です。 一昨日くらいが夏至です。夕方が明るいのって最高です。オキシトシンシンです。 意味わからない人は読んでください。
幸せホルモン・オキシトシンと加味帰脾湯、そして樺沢紫苑先生 | 淡海せぼねクリニックブログ

日本脊髄外科学会から日本脊髄外科学会指導医の更新と脊髄内視鏡下手術技術認定医の承認通知を頂きました。
せぼねを専門とする者として取得したライセンスは、脳神経外科専門医試験に続いて 脊髄外科学会認定医→脊髄外科学会指導医、脊髄内視鏡下手術技術認定医 です。
脊髄外科学会認定医
思い出します。取得できたのは2008年です。前年に落とされています。少しその時のお話をします。 認定は経験症例数(ほぼ助手でオッケー。術者は少し)、学術点で判断されます。 2006年から2007年あたりの勤務先の直属の上司が認定医選考委員でした。私は好かれていなかったと思います。 2007年ごろ、その上司がなぜかいなくなってしまい、手術が経験できなくなりました。他府県からその上司目当てに研修に来られていた先生も非常に困っていました。
そんなこんなで、症例数をさらに集め、学術点も増やすためにいろんな病院に出張しました。もちろん学術も頑張りました。 マッチョな状態で認定医選考を受けようとしたら、翌年、なんとその先生から「俺が推薦状を書いてやる」と。 「???」 しかし、そこで「いらんわ」とは言いません。「あざーっす」とワインをもっておうちに伺いました。
「1回目よりスコアは絶対にいいだろう。どうせ合格させなあかんから、俺が認めたことにしてやろう」って思われたんかなあ、と思いましたが、お聞きしませんでした。 「人生って、こんなもの?」いいんです、そんなもんなんです。 仕事・遊び・人生のメンターのDr.Kに事の次第をすべて話したら「それを含めて認定医や」! 私の大好きな言葉です。 苦しいことがいっぱい詰まった脊髄外科学会認定医です。
脊髄外科学会指導医
手術症例数も学術点も認定医よりも数段階上です。 指導医の最大のメリットは「指導医に指導してもらって初めて認定医になれる」というところです。ですから指導医のいる病院はそれだけこれから認定医になろうとする若者にとって魅力があるのです。
2008年に認定医になり、しばらくすると大学から「脊髄班として帰って来い」と言われました。 ありがたい話ですが、当時は脳卒中バリバリ、緊急疾患ばっかりの日赤病院にいましたから、脳の手術ばっかりでした。 今はほぼ一人で年300例手術しても全然平気ですが、当時は3人で300例の脳外科手術を必死でやっていました。3日のうち2日は泊まりでした。
脊髄外科認定医はとりましたが、ほとんどすべて助手でした。術者としては全く経験が不足しており、脊髄手術執刀の自信はありませんでした。そして大学では私を指導する脊髄外科指導医はいませんでした。
どうせなら日本の標準治療を学びたい、脳神経外科の中で、整形外科の脊椎センターみたいなところに行きたい、と思い、藤枝平成記念病院に飛び込みました。 具体的には当時の三重県では行われていなかった金属スクリューを用いた腰椎頚椎固定術や、神経根ブロックによる診断です。 行ったらすごい病院でした。いろいろと学べました。いった段階ですでに論文研究テーマが二つ用意されていました。脊椎疾患と排尿機能、もう一つは腰椎デルマトームの実際。難しい話になりますが、二つとも私の代表的な論文報告になりました。
藤枝行きを大学の教授は全く許してくれませんでしたが、何とか行っちゃいました。 藤枝の兄弟子によると平成記念病院では半年在籍すれば術者になれるという話でした。私は3か月でチャンスが与えられ、当時の日本脊髄外科学会理事長であるセンター長の花北先生が助手に入ってくれて、「合格」という事で術者になれました。 以後は先輩に手術で指導されたことはほとんどなく、目で見て考えて質問していろんな手術に経験するスタイルです、今まで。
2年間いろいろなことを学び、たくさん学会発表をして論文も執筆しました。 2年間でいろいろあって三重に戻りたくなり、2012年に大学に迎えていただきました。そのときには指導医はまだスコアが足りませんでしたが、2013年には指導医を取得できました。 藤枝に行かなかったら、日本中のいろんな素晴らしい先生にも会えなかっただろうし、本当に花北先生、高橋先生、南先生には感謝しています。
この二つのライセンスは本当に欲しかった。それぞれに意味があった。 脊髄外科認定医の時には、まさに何もなかったから。とにかく認めてほしかった。 指導医の時には、何とか三重に受け入れてほしかった。勝手に出て行って勝手に帰ってくるって、なんか土産持ってこい―って感じ。 今考えると自然にとったような感じもしますが、メチャ頑張りました。
脊髄内視鏡下手術技術認定医
どうしても取りたい、と思ってきたわけではありません。ないのは恥ずかしいなあ、くらい。 なぜならすでに前任のあいちせぼね病院でたくさんいろいろ内視鏡手術を経験させていただいていたので、これでいいんじゃない、くらいに思っていました。 しかし、メインの武器が16ミリの内視鏡から、開業してからは8ミリのFESS手術・日帰り手術に移行してきました。今はほぼすべて8ミリ内視鏡のFESS手術で、16ミリ内視鏡は30例に1例くらいです。
この認定医を取得するのには学術スコアとビデオ判定があります。この注意点がとても勉強になりました。スコープの愛護的な使い方とか。 そして向陽病院の西村先生、岩井FESSクリニックの古閑先生、そして五百蔵先生にはとても世話になりました。出沢PEDクリニックの出沢先生、あいちせぼねの伊藤不二夫先生は言わずもがなです。
どの経験もなくてはならなかったのかなあ、と今は思います。 しかし、振り返っている場合じゃないので、8ミリFESS手術を極めるべく、明日からも精進いたします。