• 1月 11, 2026
  • 1月 12, 2026

「人の痛みをとる そして人の役に立つ」=承認欲求 そのものじゃねえ?

最近、あーそういえばそうだなあ、と。以前に仏教、マインドフルネスのところで欲≒承認欲を大いに否定しました。仏教では基本的に欲そのものを否定します。

良い診療、良い治療のために マインドフルネスの入り口は仏教 | 淡海せぼねクリニックブログ

一方でコラムの最後に

「人の痛みをとる そして人の役に立つ」 と最近よく書きます。

人の役に立つ | 淡海せぼねクリニックブログ

それって承認欲求そのものじゃないの? という会話が自分の中でずーっと。

ちなみにPCであればページの右上に検索欄がありますので、例えば「分離症」、「マインドフルネス」、「人間」なんでもできますので、良ければどうぞ。

食べたい、寝たい、スポーツをしたい、いい車乗りたい、人に会いたい、いろんな体験をしたい、学びたい、金持ちになりたいとか、もてたい、悲しい時に泣く、ムカついて怒る、素晴らしい感動的なシーンで感動する、可愛い小さな生き物や赤ちゃんを愛おしいと思う、きれいな風景をきれいと思う、このような自然な感情の発露を私は信じます。頭だけで考えたり、誰かに洗脳された価値観は信じられません。

そういう意味で、「人の役に立ちたい」、というのは今の自分にとって、とても自然な気持ちであり、もっと突き詰めてもいいのではないかと思う指針です。

どういう事だろう。数日間考えました。

マズローの欲求5段階説の中で第4段階が承認欲求。誰でもある、自然な欲求です。

承認欲求という光|福岡 仁|fukuoka jin

アドラー心理学で「共同体感覚」ってあります。自分が生きるのに必要なことだけでなく、集団で生きることを基準に考えると「人の役に立つ」ことを欲求と感じるのは自然なこと。

承認欲求が満たされないことで自己肯定感が下がったり、無気力になったりすることは考慮しないのですか?

承認欲求は本当に“悪”なのか?──アドラー心理学を超えて生まれる“エネルギー”の正体|Ken|AI行動ラボ

極端に言うと、集団のために自分の命を賭していく人も同じ感じなんじゃないか。原始時代からそうでしょう。

もし、今、自分が何かの試験を受けようとしていたら、共同体感覚、人の役に立ちたいという感情、承認欲求は無意味でしょう。試験は落ちたらゼロだから。

前提としてクリニックをやって、人のために尽くす立場なので、認知されることが必要条件。結果を報告することも必要。だから承認されることもいいんじゃない? しかし、品位と見てくれる人への気配り、愛情がなければ意味がない。人間という集団の利益に寄与するためにどうした、努力した、結果が出た、という事はアピールしてもよいが、高価なものを手に入れたぞー、は品がない。何より集団の利益と関係ない。私がプラージュ行った、というのもまあ、関係ないけど許して。

という事で

「人の痛みを取る、人の役に立つ」はまさに「承認欲」そのもの、でもOK

「共同体感覚」という観点では、人の役に立って承認を得るのは自然

「承認をくれー」とアピールしすぎは品がない。

カネがある、儲かった、などの個人の利益は共同体感覚的には反するので、バツ

少し整理できました。どんどん時とともに考えは変わると思うけどね。

年を取ったら坊さんみたいになるのかなあ

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